KINJIです。
私のプロフィールを簡単に記載させて頂きます。
あまり周りの人がやらなかった経験などを主にお話し致していきます。
先ず、4歳の時に幼稚園に通っているにもかかわらず、4ヶ月間九州の両親の田舎に一人で行っていました。正確に言うと横浜の家にばぁちゃんが遊びに来ていて”金治も九州に行くか?と聞かれ行くと答えた為ばぁちゃんに連れ攫われました笑
九州に沢山親戚が居りまして2〜3週間毎にそれぞれのお宅に行ってはいたずらと
やんちゃと、毎朝叔父さんと車に乗り畑仕事や山に行き椎茸の手入れなどをしていました。
そして、小学3年の時に何故だか劇団に入る事になり5年生の時には舞台に出演する事になりました。
毎日学校から帰宅したら直ぐに電車に乗って横浜の家から劇団がある飯田橋までレッスンに3ヶ月間毎日通っておりました。22時にレッスンが終わり飯田橋駅前の立ち食いそば屋でコロッケうどんをサラリーマンのおじさんと一緒にすすっていました。
1年後の小学6年生になって2度目の舞台に出演し大人も含めた150名位の全出演者の中から一番光栄な演技賞をいただきました。
高校生になってからはバイクに夢中になり400ccのバイクを乗り峠をひたすら走っておりました。
高校の卒業後9月19日に125ccのバイクで日本一周の旅に出ました。勿論宿には泊まらず野宿メインですが親切な方が家に招待してくれたり、宿代を出して頂いたり、大変助けて頂きました。皆様本当にありがとうございました。
日本一周から戻って来たのは12月24日で2日後から休職していた仕事を再開させて頂きました。
年が明けて4月からは念願だったバイクレースを始めました。趣味とかではなく本気で世界チャンピオンになろうとして始めました。自分で言うのもなんですがかなり頑張りました。
4時半から仕事をして21時位に終わり、その後河川敷で暗い中、陸橋の街灯頼りにでオフロード練習をしたり、切り崩し途中の山の中で夜練習をしていました。
途中挫折とか怪我とか1年間辞めたりした事もありましたが2001年、2002年、2003年と全日本チャンピオンを獲得することができて特別に本場アメリカの最高峰のプロライセンスを日本ターサイクル協会の方から声をかけて頂き獲得させて頂きました。
翌年からアメリカのプロクラスにスポット参戦しました。日本〜アメリカ間を年間5、6往復していました。バイクやパーツ類はチームで預かって頂きました。バイクが壊れてしまった時は日本でサポートをしてくださったショプからタダ同然の価格で450ccのレース用バイクを頂きました。
エンジンだけDHLでアメリカに空輸し車体は全部バラバラにしてコジマ電気でもらって来た冷蔵庫の空段ボールに詰め込み、その車体が入ったダンボール箱を持ってJRに乗り、成田空港まで行きました。普通に飛行機に搭乗する様に預け荷物として預けてアメリカまで運びました。荷物の追加料金とかはとられませんでした。労力は掛かっておりますが、アメリカに450ccバイク1台を空輸で4万円位で運べてしまいました。
人間気合いを入れれば結構なことができるんだなと思いました。お金をかければもっと楽な方法があったかも知れませんが貧乏レーサーだったので1円でも安くと思いやりました。
アメリカのチーム拠点に着くと既にエンジンは届いていたので、自分でバラバラにした車体を組み上げそしてエンジンを乗せ無事に元通りにできました1時間30分位で。その後、エンジンチューニングは、チームのエンジニアに仕上げて頂きました。
アメリカのレースで2回骨折した事があります。その時日本に帰国する際毎回持って帰る荷物が多かったのでしんどかったのを覚えています。
後、肩の靭帯が切れた事もありました。腕が上がらず2戦参戦するために渡米したのに1戦だけで帰国する羽目になってしまいました。
帰国して直ぐに肩靱帯専門のスパードクターを探しまくりました。
千葉の船橋整形外科に席を置いている先生を見つけ、直ぐに電話をしてかなり無理く
り長い時間をかけてお願いし、とりあえず直ぐに診察してもらえるようにして頂きました。感謝しかないです。
診察室に入るとスーパードクターの菅谷先生は黒の白衣?をまとっており、周りに5人くらい弟子達みたいな方がボードを持っていて、ドクターが何か言う度に何か書いていました。スーパードクターの威と格の違いをを感じました。
手術をしようという事になり日程を3週間後に無理くりスケジュールに入れて頂きました。願えば叶うっていうのは全くこういう事だなと夢のような気分でした。
で、お会計をする為に待合室でまっていますと、手術日は3週間後、という事は、アメリカに出場したかったレースを見に行けると思いました。でもどうせ行くなら出たいな?って悪い考えがよぎりまさしたが直ぐに打ち消しました。
でもそれから時間が経つに連れて、出たい気持ちが上り、しかし腕には三角巾で腕を吊り下げている状態で腕は使えないだろう、
ならテスト走行してみれば?
とりあえず3日安静した後にハイエースで裏山に行き、車内にしまっているレースバイクを下ろそうとしましたが、激痛が走りました。細い板を使って車からバイクを下ろしている途中での激痛でした。腕は使えなくなり胸を使ってなんとかおろしました。この時点で止めようかと思いましたが、意外にも走ってみると角度によっては全く痛くなく、よし!行こう!レースに出ようと決断をしました。
全ての手配をして三角巾をしたまま飛行機に搭乗しました。家を出る時はお母んに、散々バカよばりされました笑
アメリカのチームの拠点に行ったら皆んなにクレイジーと言ってくれました、最高の褒め言葉です。
一度焦ったのは予選レースが終わった後に恐る恐る手を肩に触れてみたら骨が
浮き上がっていました。正直顔が真っ青になりました。直ぐにレースは止めようと思いました、本当にバカな夢が覚めた感じです。一瞬でレース狂が覚めました。
パドック内を半分片付けていた時決勝レース車両をゲートまで運べ合図のエアーホーンが鳴り響きました。それを聞いて僕は何と直ぐ様ヘルメットを被りエンジンを掛けてゲートに向っていきました。もう自分でも止められないと気づきコースインするゲート前でいつもの呼吸法で集中力を引き上げました。レースは8位か7位でした。約80名中16名が予選を勝ち上がりそして決勝での順位でした。
無事に帰国して手術日になんてことのない顔をして安心して手術ベットに横になり感無量の思いで全身麻酔をうけ眠りに落ちました。
サポートをして頂いておりましたヨシムラジャパン様のご紹介でスズキの
カタログライダーをした事もありました。
そんなこんなでアメリカで10シーズン戦いました。
チームの拠点のイリノイ州から毎年2月3月にジョージア州とフロリダ州のデイトナに丸々2日間掛けて行った事が結構楽しかったです。10日間で10レース前後をしたのは精神的にけっこうきつかったです。エンジンメンテナンスをする場所と時間がなく、ホテルの駐車場で明け方までやっていたりしました。
10シーズンを迎え気持ちの中でかなりやり切った感がありましたのでデイトナ
レースウイークを最後に引退致しました。思えばチーム関係者の方々、そして全く名前も
知らない数多くの方に助けて頂きました。勿論両親の寛容な心があっての
できた事であります。
さぁ次は何をやるかは既に決めていました。海外で働く事、
その為にはビザが必要なので何にもスキルがない自分でもとてるビザは
寿司シェフの専門技術ビザしかないと考えていました。
日本の企業が海外に店舗を出している会社に就職できれば海外勤務は可能だと
読んでいました。
がしかし、どうせやるなら一流の店でしっかりした仕事を覚えたいと思い先ず海外の事は
考えずに銀座の一流店に電話を掛けて会う機会を頂きました。これがボロボロの結果で
行く所行く所15軒くらい全て断れました。
そして鮨かねさかの金坂さんとお会いして長々1時間くらいお話をしました。
金坂さんは元高校球児でとても熱い方でした。僕も自分の想いを語り目頭が熱くなりました。涙が流れそうでした。
かねさかに受け入れて貰いシンガポールのラッフルズホテル店に勤務が決まりました。
髪の毛を剃刀で剃るほどのツルツル頭でのスタートになりました。3日ごとに頭を剃っていました。
そんな感じで高級鮨の世界をスタートする事ができ、その後、マカオ、バンコク、NY、カナダ、ドバイというように働いて来ました。コロナの時期の2年間は、軽自動車を買い個人事業主としてヤマト運輸から仕事を貰い宅配を配っていました。2年目は年収は800万円くらいいきました。収入は良かったですが、ヤマト運輸の制服を着ていない人間が玄関先で「ヤマト運輸です」というとゴミのように扱われたものです。マンションのご高齢の管理人さんからも当たりがきつかったです。
そして今また新たな事をやろうと始めました。ですがまだまだ自分を追い込んで
課題をクリアーさせていかなくては成功できないです。帳尻を合わせられる男を
目指します!